今日の朝刊で、「黒い雨」を体験した住民等を被爆者と認定する初めての判決が出たというニュースをみた。75年という、長い年月がかかってようやく出た司法判断。早く、被爆者救済がすすみますように。
今日のネット記事によると「原爆の被害は長らく直接の放射線の影響が重視され、直後に降った雨や火災のすすに含まれた放射性物質による被ばくは、未解明な部分もあって軽視されてきた」という。原爆が落ちた後広島市内に入っていった人たちも被ばくする。これを入市(にゅうせい)被ばくというが、救済を受けられないできた人たちがずいぶん、いるだろう。
何年か前、アーサー・ビナードさんの講演会に行った。日本語を読み書きするビナードさんによる日本語の講演だ。そしてこの絵本を知った。第五福竜丸事件について、はずかしながら私はほとんどなにも知らなかった。 ビナードさんから教わったのだ。
ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸
絵;ベン・シャーン Ben Shahn 20世紀のアメリカを代表する画家のひとり。
構成・文;アーサー・ビナード Arthur Binard アメリカ生まれの詩人。大学卒業後に来日、日本語での詩作をはじめる。
本の解説より…「1954年3月1日、マーシャル諸島のビキニ環礁でアメリカ国防総省が水爆実験を行った。爆発力は広島型原爆の1000倍を超え…大量の放射能が潮流にのって太平洋を広く汚染し、気流によって北極まで運ばれ、また放射能雨となって日本全土を含む広範囲に降り注いだ。」「マーシャル諸島の住民が被曝した。米軍が定めた危険区域の外の公海ではえ縄漁をしていた第五福竜丸も、死の灰をもろに浴びた。」
講演で、ビナードさんから聞いたことーー無線長の久保山愛吉さんは、爆発時に自分たちが軍事機密に遭遇してしまったことを察知した。打電は、まずは、しない。打電したら傍受されて自分たちの存在を知られる。そうしたら自分たちが攻撃対象にされかねないから。そして仲間に大声でいったという…米軍の舟や飛行機、ヘリが見えたら知らせよと。それはつまり相手に自分たちの舟を見られたということだから、そのときは、すぐに焼津に無線を打ち自分たちの位置を知らせる、そうでなければ無線は打たないと。ーーこの話を聞いたとき、恐ろしさに背筋が冷たく緊張した。そして、とっさに鋭い判断を下した無線長の経験のゆたかさに感服した。
放射能による症状がではじめながらも、23人の乗組員たちは自力で二週間かかって母港の静岡県焼津に帰った。そして自らの体験を語り、水爆の生き証人となった。
東京江東区に、都立 第五福竜丸展示館がある。東京オリンピックが開催されるあいだはなぜか閉館ということだったが、延期されたのでこの夏も通常開館するそう。たくさんの資料がある。